ついに始まる新しいNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』!
前作『あさが来た』が稀にみるヒット作となり、未だに名残り惜しいですね。
でも、新作『とと姉ちゃん』の方に移りましょう(笑)
主演は『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の高畑充希さんです。
ここでは、『とと姉ちゃん』のあらすじではなく、『とと姉ちゃん』の主人公・小橋常子のモデルである大橋鎭子とはどういう人だったのか、についてまとめました。
また、『とと姉ちゃん』の脚本家についてもプロフィールをご紹介いたします。
小橋常子のモデルの大橋鎭子とは
『とと姉ちゃん』の主人公・小橋常子のモデルである大橋鎭子は、日本製麻勤務の父親の娘として生まれました。
生まれは東京の麹町でしたが、父親の転勤の関係ですぐに、北海道に移住しています。
ところが、それも束の間、父親が肺結核に罹ってしまい、東京へ帰り、まだ小学生の時にその父親が亡くなってしまうのです。
亡くなるまでは、父親の看病に家族ともども追われるという日々が続きました。
伊東、鎌倉、大森と、全国を行ったり来たり。
幼少時からすでに波乱の生涯って感じですね。
その後、東京府立第六高等女学校を卒業し、日本興業銀行に入ります。
せっかくいい働き口を見つけたものの、3年で辞めてしまい、日本女子大学に入学をしますが、父親同様に肺結核になってしまい、中退し
てしまいます。
しばらく療養してから、日本読書新聞に入社し、以後、編集作業に携わり続けます。
激動の戦争を乗り越えた大橋鎭子は、おなじ日本読書新聞で働いていた花森安治と知り合いますが、これが彼女の運命を変えることになるのです。
これがなければ、のちの『とと姉ちゃん』もなかったのです。
1946年、大橋鎭子は、花森安治らと衣装研究所を設立し、『スタイルブック』を創刊します。
さらに、『美しい暮しの手帖』の創刊にも参加。
衣装研究所はその後、暮しの手帖社と社名変更しました。
大橋鎭子は1969年から長期間にわたり、エッセイ「すてきなあなたに」の連載をはじめます。
1978年には花森安治の死去により、編集長に就任します。
こうした永年の功績によって、大橋鎭子は1994年、東京都文化賞を受賞するに至りました。
2004年、義理の姪の横山泰子に社長を譲って、自身は社主に退きます。
そして、2013年、東京都で亡くなりました。
93歳という長寿でした。
NHK連続テレビ小説といえば、比較的古い人を主人公のモデルにするイメージがありますね。
しかし、『とと姉ちゃん』のモデルはかなり最近まで存命の人でした。
『とと姉ちゃん』の小橋常子のモデルは、このように、まさに徒手空拳で文化界で成功した一方、大変な苦労人でもあったようですね。
『とと姉ちゃん』の脚本家のプロフィール
そんな『とと姉ちゃん』ですが、主人公のモデルだけではなく、脚本家も異色の経歴で注目されているようです!
なんと脚本家は、元芸人だというのです!
『とと姉ちゃん』の脚本家は、西田征史さんという人です。
高校卒業後に芸人をめざし、ホリプロのオーデションを受けて見事に合格。
「ピテカンバブー」というお笑いコンビを結成しつつ、俳優業も開始します。
その後芸人はやめ、舞台の脚本などを担当しはじめます。
西田征史さんが脚本家として本格的に注目され出すのは、映画『ガチ☆ボーイ』の脚本を担当したころからになります。
それからは、『魔王』、『怪物くん』、『妖怪人間ベム』といった連ドラであいついで脚本をてがけていきます。
西田征史さんはさらに、2012年には、小説『小野寺の弟・小野寺の姉』を刊行しますが、同作はみずから舞台化し、西田征史さんが脚本
と監督を務めるかたちで映画化!
そして、ついにNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の脚本担当となったのでした。
本当に大橋鎭子とおなじで努力の人といった感じですね。
まとめ
『とと姉ちゃん』は、主人公のモデルも脚本家も両方、すごい人だったのですね。
努力もですが幸運もかなりすごいといえるでしょう。
『とと姉ちゃん』の視聴率が、前作の『あさが来た』レベルに上昇すればいいですね。
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