安室奈美恵電撃引退の真意とは?
2017年9月に、翌2018年9月16日付での引退予定を発表した歌手の安室奈美恵さん。
昭和から平成にかけてのJ-POP女性シンガーの代表的存在と言える彼女ですが、若い方の中には、彼女のこれまでについて、あまりご存知ない方もいらっしゃるかも知れません。
以下に安室奈美恵さんのこれまでについて簡単にまとめていますので、当時をご存知の方もご存じない方も、ぜひ、ご一読いただければと思います。
Contents
安室奈美恵プロフィール
名前 安室奈美恵(本名同じ)
生年月日 1977年9月20日 おとめ座
血液型 O型
出身地 沖縄県那覇市首里
愛称は「安室ちゃん」で、デビュー当時は愛嬌がある笑顔が素敵でしたね。
そんな安室奈美恵さんは、実はクオーターだったんです。
祖父がイギリス系の方ということです。
言われてみればそんな気もしますが、沖縄特有の濃い顔という印象のほうが強い気がしますよね。
沖縄アクターズスクールとの出会い
安室奈美恵さんは、11歳の時に、友達に誘われて沖縄アクターズスクールに見学に来た時にスカウトされたということです。
この沖縄アクターズスクールというのは、芸能人を養成する学校として開校され現在までに数多くの芸能人を輩出していることで有名です。
例えば、超有名なのが今はもう解散してしまいましたが、SPEEDは大ブレイクしましたね。
それから、DA PUNPや満島ひかりさんが所属していたFolder5、タレントの知念里奈さんや女優の黒木メイサさんなどたくさんのグループや女優、タレントを育て上げています。
話がだいぶんそれてしまいましたが、見学に来ていた時に沖縄アクターズスクールの校長であるマキノ正幸さんにスカウトされたことがきっかけで入校することになりました。
ちなみに、このマキノ正幸さんの娘さんは、あのAKBなどの振り付けで有名な牧野アンナさんなんですよ。
また話がそれそうなので、戻りますが、スカウトされた当時、家庭の事情で月謝が払えないという理由で断ったそうですが、マキノ正幸校長の強い要望もあり特待生として迎え入れるということになりました。
もし、マキノ正幸校長が才能を見抜いていなければ、ひょっとしてスパースター安室奈美恵は存在しなかったかもしれませんね。
始まりはグループアイドル
今でこそ、ソロシンガーのイメージが強い安室さんですが、プロとしてのキャリアの第一歩は、女性のグループアイドルでした。
アイドルと言うと、若干、語弊がありますが、沖縄アクターズスクール出身者に共通する、歌って踊れる女性ダンスグループの一員として、安室さんはデビューを飾ります。
グループ名はSUPER MONKEY’S(スーパーモンキーズ)。
安室さんを含め、計5人で構成されたグループでしたが、残念なことに、なかなかヒット曲には恵まれませんでした。
そんな中、グループ名を『安室奈美恵 with SUPER MONKEY’S』と改名してから2曲目のシングル曲『TRY ME ~私を信じて~』が、大ヒットを記録。
その後、安室さんはソロ名義で活動するようになり、1996年にSUPER MONKEY’Sとしての活動は完全に終了。
安室さん以外の4人のメンバーは、MAXというグループ名で活動を開始し、今日に至っています。
『THE夜もヒッパレ』で知名度アップ
最近の若い方はもうご存知ないかもしれませんが、90年代の超人気番組『THE夜もヒッパレ』に安室奈美恵さんはレギュラーで出演していました。
最初はSUPER MONKEY’Sとして出ていましたが、次第に単独扱いとなっていきました。
この『THE夜もヒッパレ』という番組は、ランキング形式でヒット曲を出演者がカラオケ形式で歌って盛り上がるという内容です。
土曜日の10時から放送されていましたので、週末の飲み会の後のカラオケのようなノリが印象的でしたね。
司会が三宅裕司さんということもあり、お笑いの要素も満載で、安室奈美恵さんもノリノリで歌って踊って楽しんでいたように感じました。
やっぱり、歌や踊りはずば抜けていましたので、かなり目立っていましたね。
ここで、かなり知名度が一気に上がったことは言うまでもありません。
小室ファミリー
安室奈美恵さんのヒット曲を語る上で外すことのできないのが、小室哲哉さんの存在です。
当時、既に渡辺美里さんの『My Revolution』や、自身のバンドであるTM NETWORK(のちにTMNと改名)などでヒット曲を連発していた小室哲哉さん。
TMNの活動終了後(※のちに活動再開)、音楽プロデューサーとしての活動を精力的に行なうようになり、安室奈美恵さんの楽曲も担当して、ミリオンセラーを次々に生み出しました。
これは、安室奈美恵さんにとっては大きな決断であったことは言うまでもないでしょう。
当時、レコード会社のレーベルは東芝EMIでしたが、小室さんのプロデュースを期にavex traxに移籍をしました。
そして、小室さんプロデュース第一弾シングル『Body Feels EXIT』が1995年10月25日に発売されました。
そして、第二弾シングル『Chase the Chance』で念願のオリコンチャート1位を獲得し、ついにミリオンセラーを達成することとなったのです。
そしてその年の紅白歌合戦にも初出場することになり、一躍時の人となりました。
その後は出す曲出す曲ヒットするという人気ぶりでした。
ざっと挙げるだけでも『Don’t wanna cry』や『You’re my sunshine』、『a walk in the park』など、枚挙にいとまがありません。
さらに、1996年7月22日発売のセカンドアルバム『SWEET 19 BLEUS』がトリプルミリオンという快挙を成し遂げました。
運命の曲との出会い
そして何と言っても特筆すべきなのが、安室奈美恵さん自身最大のヒット曲でもある『CAN YOU CELEBRATE?』の作詞・作曲を担当したのが、小室さんであるということ。
今や、日本の結婚式の定番ソングとなったこの楽曲を生み出したのが小室さんなのですから、その功績には目を見張るものがあります。
この曲が発売されたのは1997年1月でしたが、その年の10月に電撃的な結婚発表がありました。
この曲は、運命を予言していた曲と言われていましたが、それ以前からの交際は小室さんは知っていたはずですから、ひょっとしたらお祝いソング?だったかもしれませんね。
小室さんが担当した歌手の方々は、当時、小室ファミリーと呼ばれていましたが、そんなあだ名がつくことも納得の活躍ぶりでした。
小室さんは、2018年11月に発売された安室さんのオールタイム・ベストアルバム『Finally』で久々に安室さんに楽曲を提供し、さらにはCMでも安室さんと共演していますが、当時のことを考えると、感慨深いものがあります。
アムラーという社会現象
ヒット曲を連発し、大人気歌手となった安室さんは、莫大な人数のフォロワーを獲得。
安室さんと同様のファッションをすることが若い女性の間でブームとなり、彼女たちはアムラーと呼ばれるようになりました。
街でもアムラーを頻繁に見かけていたことを思い出します。
小室さんが担当してヒット曲を連発した女性ソロシンガーには、他に渡辺美里さんや華原朋美さんなどがいますが、熱烈なファンは多かったものの、アムラーほどの大規模な社会現象を巻き起こすことはありませんでした。
そういった意味では安室さんは、当時の社会の空気を象徴する、まさに時代のアイコンと呼べる存在だったのかも知れません。
結婚=引退ではない
1997年に『CAN YOU CELEBRATE?』を発売してから8か月後、安室奈美恵さんは小室ファミリーの一員だったTRFのメンバーの1人、SAMさんとの結婚を発表。
安室奈美恵さんは、このときまだ20歳という若さでしたので、日本中が驚きました。
発表当時、すでに妊娠中だったことから、翌1998年は出産に専念しましたが、あくまでも出産後の復帰が前提。
出産後の同年12月には新曲を発売し、紅白歌合戦にも出場しました。
昔の日本の芸能界によくあったような結婚=引退ではなく、結婚・出産後もごく当たり前のように芸能活動を続行し、輝き続ける安室奈美恵さんの姿は、大きな共感を呼びました。
その後、SAMさんとは2002年に離婚が成立。
安室奈美恵さんは子育てをしつつ、コラボ企画や海外展開など、さらなる意欲的な活動を展開していくことになります。
信じられない事件が勃発
1998年は産休明けから復帰して、本格的な音楽活動を再開していました。
しかし翌1999年、とんでもないニュースが日本中を駆け巡りました。
3月17日安室奈美恵さんの実母が殺害されてしまうという事件でした。
実母平良恵美子さんは、再婚相手の弟に車で轢かれナタで切り付けられ殺されてしまいました。
殺した本人もすぐに自殺してしまい、この事件の真相は解明されぬままとなったしまいましたが、噂では実母とその兄弟の間での三角関係説や借金がらみ説などではないかと言われています。
当然ながら、ワイドショーや新聞、週刊誌では連日のように報道合戦でした。
安室奈美恵さんは相当なダメージがあったことは想像できるのですが、その12日後には『HEY!HEY!HEY!』に出演して復帰していましたので、これにも驚きました。
母親への想いを左腕のタトゥーに込めました。
それぐらいショックであったにもかかわらず、お仕事や子育てに全力で取り組む姿は感動的でした。
小室ファミリーとの決別
2001年に発売したシングル『think of me』を最後に小室さんのプロデュースが終了することになります。
その後も、精力的に楽曲をリリースしたり、全国ツアーを行ったりと、積極的な活動を続けていきます。
紅白歌合戦も、初出場から9年連続で出場して、大トリも務めるほどの人気者となります。
しかし、2000年代になると、CD自体が売れない時代となりセールスは伸び悩むようになっていきます。
それは安室奈美恵さんだけの問題ではなかったのですが、それと共に、シングルチャートも伸び悩むことにもなってきました。
ですが、人気は常に健在で、全国ツアーはいつでもソウルドアウトは当たり前という状態は続きます。
最近も精力的に活動
2016年にはリオ五輪のNHKのテーマソングとしてリリースされた『Hero』は、爽やかな楽曲で、オリンピックが終わってからも頭に残るほどの名曲でした。
最近では、ドラマの主題歌に楽曲を提供したり、アルバムも精力的に発表されてます。
そして、何と言っても大迫力のライブツアーは今でも大人気です。
そんな安室奈美恵さんが、突然引退を発表するとはだれも予想してませんでしたよね。
電撃引退発表
日本中に衝撃が走りました。
誰もがなぜ?となってしまい、色々な憶測が報じられました。
体力限界説、息子のために説、事務所トラブル説などなどマスコミが騒ぎ立てました。
さらに、これはまさに引退ビジネスで、ずいぶん前から水面下で進められていたのでは、といううわさまでささやかれました。
2018年9月16日をもって引退ということですが、この一年は相当なイベントやリリース、テレビ出演、ツアーなどなど目白押しとなることは間違いないでしょう。
一年という期間を設けたのは、最後に、支えてきてくれたファンに対しての恩返しがしたいという安室奈美恵さんの想いがあってのことだと信じたいですよね。
引退の真意は?
引退の理由は今現在のところ本人からは語られていませんので、本当の真意ははっきりしていません。
一番濃厚とされているのが、2015年に前所属事務所ライジングプロダクションからDimension pointに所属事務所を移籍する際にトラブルとなったことが原因ではないかと言われています。
その後、円満に移籍問題は解決されたということですが、大人の事情がそこにはあるようで、問題がくすぶっているようです。
ライジングプロダクションからしてみれば、デビューから手塩にかけて育ててきたアーティストを横取りされるのはいい気がしないですし、そこには莫大な利権も絡んできます。
そこに群がる人々を見るのは辛いでしょう。
そこにまともな人間関係が築けるかどうか考えればわかりますよね。
それをリセットするには引退という選択肢しかなかったのかもしれません。
体力限界説?
ストイックで中途半端が嫌いというイメージからすると、今が限界なのか?
安室奈美恵さんは今年で40歳ということで、体力的にもかなりきつくなってきているのも事実でしょう。
あれだけパワフルに歌いながらダンスを踊る姿は今も昔もほぼ変わりないのは驚異的です。
それだけのトレーニングや努力をしているからこそではあるのは間違いありませんが、年間に何十本というライブをこなしていくには相当の体力が必要です。
さすがの安室奈美恵さんも正直キツイはずでしょう。
そして何より、応援してくれるファンに中途半端なパフォーマンスを見せれないという想いがあるのも事実でしょう。
安室奈美恵さんのまとめ
最初は売れなかったものの、のちに一時代を築き上げ、長きに渡って活躍を続けてきた安室奈美恵さん。
引退発表後に発売されたオールタイム・ベストアルバム『Finally』は、発売後わずか1週間でミリオンを達成し、その人気の健在であることを改めて証明しました。
そして、2017年紅白歌合戦にも特別枠での出場が決定しました。
最後の紅白でどんなパフォーマンスを披露してくれるか楽しみですね。
きっと日本中がそのパフォーマンスに釘付けになることは間違いないでしょうし、伝説となることでしょう。
そして、引退前の最後の一年となる今後の彼女の活動にも、注目したいところです。